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武田元信(たけだもとのぶ)

守護大名[日本]

(大永元年12月3日没)

(ユリウス暦) 1521年 12月31日 死去

武田 元信(たけだ もとのぶ)は、戦国時代の守護大名。
武田国信の次男。
若狭国・丹後国守護、安芸国分郡守護。
若狭武田氏5代当主。
生涯= 家督継承= 寛正2年(1461年)、武田国信の次男として誕生したとされる(『諸家系図纂』)が、佛國寺所蔵の「武田氏系図」では文安3年(1446年)生まれとされる。
若狭武田氏は代々管領細川氏との関係が深かったといわれ、元信が文明3年(1471年)に元服して細川勝元に付けられた名前は勝元の「元」(管領細川家の通字)と武田家の通字の「信」から成る。
尚、「元」の字は子の元光、曾孫の義統(義元)も使用している。
文明17年(1485年)兄・信親が早世し、延徳2年(1490年)には父・国信が死去したため、家督を継承した。
明応の政変と将軍足利義澄の信任= 明応2年(1493年)4月22日、10代将軍・足利義材が廃された明応の政変に際しては、11代将軍・足利義澄を擁立した管領細川政元(勝元の子)を支援した。
この際、武田元信は明応2年閏4月3日に上洛している(『北野社家日記』)が、その2日前に細川京兆家と対立関係にあった大内政弘の娘が京都で誘拐される事件が発生している。
ところが、早くから武田元信が先に政弘の娘との婚約を破棄された事への報復と噂されていた(『大乗院寺社雑事記』)。
一方で、直後に細川政元が堺に滞在していた大内義興(政弘の子で先に誘拐された娘の実兄)を自陣営に勧誘しており、大内氏が政変に反対し ……

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