足利義澄(あしかがよしずみ)
室町幕府第11代将軍[日本]
(永正8年8月14日没)
(ユリウス暦) 1511年 9月6日 死去病死享年32歳
足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府の第11代征夷大将軍(在職:明応3年12月27日〈1495年1月23日〉 - 永正5年4月16日〈1508年5月15日〉)。
父は第8代征夷大将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。
はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。
正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。
継室は武衛娘。
明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。
しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。
生涯=
幼少期=
文明12年(1480年)12月15日、堀越公方・足利政知の次男として生まれる。
当時、政知の嫡男で異母兄の茶々丸が堀越公方の後継者とされていたため、文明17年12月(1486年1月)、叔父・足利義政の意向で政知が還俗する前に院主をしていた天龍寺香厳院の後継者に定められ、文明19年(1487年)6月、上洛して香厳院を継承、出家して法名を清晃と名乗る。
長享3年(1489年)3月、従兄の9代将軍・足利義尚が死去して義政が後継者を失い、翌年に義政も死去して室町幕府の将軍の座が空位となると、清晃も後継者候補の1人に挙げられたが、この時は義政の未亡人・日野富子の推挙で叔父・足利義視の子である足利義材(のち ……