佐々木只三郎(ささきたださぶろう)
旗本、京都見廻組隊士[日本]
(慶応4年1月12日)
1868年 2月5日 死去戦死享年36歳
佐々木 只三郎(ささき たださぶろう)は、江戸時代末期(幕末)の武士・旗本、京都見廻組隊士。
生涯=
天保4年(1833年)、陸奥国の会津藩領内(福島県)において会津藩士・佐々木源八の三男として生まれる。
親戚であった旗本・佐々木弥太夫の養子となる。
神道精武流を学び「小太刀日本一」と称され、幕府講武所の剣術師範を務めたと伝えられる。
京都守護職の会津藩主・松平容保に従う兄の手代木勝任を動かし、旗本の松平忠敏と尊王攘夷派の浪士・清河八郎の策を容れ、江戸において浪士組を募集する。
文久2年(1862年)正月に浪士組は上洛し、同年2月23日に京都へ到着する。
清河は浪士組が京都へ到着すると、浪士組結成の目的は朝廷のために尊皇攘夷を実行することであると主張し、江戸へ帰還することを宣言した。
これに対し、江戸試衛場の近藤勇や芹沢鴨らのグループは分派して京都へ残留する。
只三郎は近藤・芹沢らを京都守護職・会津松平家の支配下に置くように取り計らった。
清河らは江戸へ帰還すると軍資金調達のため商家押し込みなどを行っていた。
只三郎は文久3年(1863年)に江戸へ帰還すると、4月13日に清河が同志の金子与三郎宅から帰宅する途中の麻布一の橋付近(東京都港区)において、窪田泉太郎などと共に清河を暗殺した。
同時に清河派の幕臣らも処罰され、清河派の浪士は松平忠敏を盟主に新徴組を結成した。
元治元年(1864年)には京都において見 ……
佐々木只三郎が亡くなってから、156年と289日が経過しました。(57268日)