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姉小路基綱(あねがこうじもとつな)

公卿、歌人、飛騨国司[日本]

(永正元年4月23日没)

(ユリウス暦) 1504年 6月5日 死去享年64歳

姉小路 基綱(あねがこうじ もとつな)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿・大名・歌人。
参議・姉小路(古川)尹家の子。
姉小路家(飛騨古川氏)当主。
経歴[編集] 嘉吉元年(1441年)に参議・姉小路(古川)尹家の子として誕生。
侍従・左近衛少/中将等を経て、文明9年(1477年)に従三位に叙せられて公卿に列す。
その後、文明12年(1480年)参議、文明16年(1484年)正三位、明応3年(1494年)従二位に叙任されている。
基綱の出世は、和歌の才能を飛鳥井雅親に認められたことがきっかけであるとされる。
応仁の乱が発生すると近江国に逃亡した。
この際、基綱は細川勝元ら東軍に与し、美濃国の斎藤妙椿に『小島のすさみ』(二条良基)が、南朝の攻勢によって京都に逃れた北朝後光厳天皇とともに小島の行宮で数ヶ月をすごし、天皇の京都還幸まで奉仕した記録)を贈り東軍への参加を呼びかけている。
しかし、文明3年(1471年)には西軍の京極高清と妙椿が飛騨国に侵攻し、古川基綱は飛騨に下向している。
また、現地の向之綱が京極氏方の三木氏に勝利している。
この際、妙椿は基綱に東軍としての活動を飛鳥井雅親の名を出して自重するように説得している。
また当時、飛騨の姉小路家は三家に分裂し、古川家の基綱の他に、小島家の小島勝言と向小島家の向之綱という事実上3人の当主がいた。
このうち勝言が西軍の京極高清の家臣・多賀出雲守と協力して、基綱と ……

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