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畠山義就(はたけやまよしなり)

守護大名[日本]

(延徳2年12月12日没)

(ユリウス暦) 1491年 1月21日 死去

畠山義就 - ウィキペディアより引用

畠山 義就(はたけやま よしなり/よしひろ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名である。
河内・紀伊・山城・越中守護。
足利氏(足利将軍家)の一門にて室町幕府の三管領家の1つである畠山氏出身。
父は管領畠山持国、母は側室。
幼名は次郎、初名は義夏(よしなつ)。
子に修羅、義豊(基家)。
猶子に政国。
家督相続を巡って、従兄弟の畠山弥三郎・政長一派と対立、応仁の乱を引き起こす。
生涯= 義就の出自= 『三十二番職人歌合』(1494年)に描かれた「桂の女」(桂女)。
義就の母は、義就のほか、小笠原長将との間に持長を、飛騨江馬氏との間にも子をもうけている。
また『東寺過去帳』には義就は皮屋の子であり、東寺の僧祐栄とは従兄弟であるとしている。
これらのことから当時、義就の母は様々な異性と関係をもつ類の女性であり、持国の実子ではないとの説があったことが窺える。
『大乗院寺社雑事記』には、「義就の元で暮らす桂女(遊女のこと)」の記述があり、一族の略系図が添えられている。
それに拠れば、「土用」という名の女に「畠山之桂也」と書かれており、文明12年当時70歳であることが知られる。
従って、義就は「土用」27歳の時の子である可能性が高いとする研究がある。
こうした事情により、義就は嫡子とはされず、石清水八幡宮の社僧になるはずであったが、12歳の時に俄に父持国に召し出されたことから、元々継嗣と決まっ ……

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