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足利義勝(あしかがよしかつ)

室町幕府第7代将軍[日本]

(嘉吉3年7月21日没)

(ユリウス暦) 1443年 8月16日 死去享年10歳

足利義勝 - ウィキペディアより引用

足利 義勝(あしかが よしかつ)は、室町時代中期の室町幕府第7代征夷大将軍(在任:1442年 - 1443年)。
第6代将軍・足利義教の長男。
生涯= 永享6年2月9日(1434年3月19日)、6代将軍・足利義教の長庶子として誕生した。
母は側室・日野重子であるが、正室・正親町三条尹子の猶子となり、世子 として認められた。
幼名は千也茶丸(せんやちゃまる)と名付けられた。
同年3月3日、畠山持国邸で一泊したのち、翌4日に政所執事・伊勢貞国の屋敷に入った。
その後、伊勢邸で養育され、室町第に入るまでの8年間を過ごした。
嘉吉元年(1441年)6月24日、嘉吉の変が起こり、父・義教が赤松満祐に殺害されたため、26日に千也茶丸は室町第へ移された。
そして、管領・細川持之ら大名に擁されて、後継者となることが確認された。
同年8月19日、千也茶丸は後花園天皇より、義勝の名を与えられた。
また、装束・髪型は童形のままであったものの、これより後は「室町殿」と呼ばれるようになった。
嘉吉2年(1442年)11月7日、義勝は関白・二条持基を烏帽子親として、9歳で元服した。
また、併せて将軍宣下が行われ、義勝は将軍職を継ぎ、第7代将軍となった。
嘉吉3年(1443年)6月19日、朝鮮王の使節である朝鮮通信使が入京し、義勝は使節と室町殿で会見している(『康富記』)。
このとき、幕府は義勝が年少であることや、多額の護衛費用を理由に入京を断ろうとしたが、使節から義教への弔意 ……

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