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狩野雅信(かのうただのぶ)

絵師、木挽町狩野家第10代[日本]

(号・勝川院)

1879年 8月8日 死去享年57歳

狩野 雅信(かのう ただのぶ、文政6年2月14日(1823年3月26日) - 明治12年(1879年)8月8日))は、日本の幕末から明治時代に活動した狩野派(江戸狩野)の江戸幕府御用絵師、旗本。
代々幕府の奥絵師を勤めた木挽町狩野家の10代目で、最後の当主。
幼名は栄次郎。
号は勝川(院)、素尚斎。
略伝= 狩野養信の長男として江戸で生まれる。
1844年(天保15年)父と共に火災で消失した江戸城本丸御殿障壁画制作に従事した。
翌1845年(弘化2年)法眼に叙せられ、1861年(文久元年)には法印に上った。
14代将軍徳川家茂の寵愛を受け、江戸北町奉行を務めた鍋島直孝の娘を娶り、1863年(文久3年)の家茂上洛にも付き従っている。
しかし戊辰戦争時には、旧幕府軍から江戸脱走を勧誘されるも雅信はそれに応じず、その時の書状を焼き捨て新政府へ配慮している。
明治維新に際し、江戸狩野の奥絵師四家のうち鍛冶橋狩野家は徳川宗家に従い、残り三家は1870年(明治3年)御暇を仰せ付けられ平民になったという。
これを裏付けるように『太政類典』収録の「行政官支配姓名簿」に「高三百石 内百俵蔵米 狩野勝川院」の記載から明治初期には朝臣化し、「東京府・市文書」(東京都公文書館蔵)内の「明治二年 朝臣姓名」から明治2年12月以降は東京府の所管になったことが解る。
また明治2年夏には延遼館障壁画を、狩野永悳、狩野董川らと共に制作する。
一方、朝臣化した幕臣として東京府内の警備・ ……

狩野雅信が亡くなってから、145年と105日が経過しました。(53066日)