狩野伊川院の五男。浜町狩野家の友川の養子となって跡を継ぎ、奥絵師となった。弘化元年(1844)法眼となる。江戸城本丸・西の丸の障壁画制作などに参加。明治4年5月9日死去。名は中信。別号に幸川、全楽斎。(参照元・講談社 デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
狩野董川が亡くなってから、153年と222日が経過しました。(56105日)