菱田春草(ひしだしゅんそう)
日本画家[日本]
1911年 9月16日 死去腎臓疾患享年36歳
菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月21日 - 1911年(明治44年)9月16日)は、明治期の日本画家。
横山大観、下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。
本名は三男治(みおじ)。
生涯=
1874年(明治7年)、長野県伊那郡飯田町(現・飯田市)に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれた。
飯田学校(現追手町小学校)で学んだ後に上京し、狩野派の結城正明の画塾で学ぶ。
1890年(明治23年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。
春草は美校では大観、観山の1学年後輩にあたる。
美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。
春草は大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。
初期の美校では基礎知識として、フェノロサによる美学、岡倉天心による「日本美術史」、フェロノサと岡倉天心の師である黒川真頼による有職故実、和文、金工、漆工史等の講義があった。
1895年(明治28年)21歳で卒業すると、同年の秋から翌年にかけて帝国博物館の委嘱を受けて、大規模な古画模写事業に参加、京都や奈良をめぐった。
過激な日本画改革論者であった岡倉天心には反対者も多く、1898年(明治31年)、岡倉は反対派に追われるように東京美術学校校長を辞任した(反対派のまいた怪文書が原因だったとされる)。
これに伴って、当時、美校の教師をしていた春草や大観、観山も学校を去り、在野の美 ……
菱田春草が亡くなってから、113年と46日が経過しました。(41319日)