織田秀信(おだひでのぶ)
戦国大名[日本]
(幼名・三法師、織田信忠 嫡男、慶長10年5月27日没)
1605年 7月13日 死去享年26歳
織田 秀信(おだ ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、キリシタン大名。
織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。
岐阜城主。
織田政権三代当主。
官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれた。
生涯=
本能寺の変・清洲会議=
清洲会議で三法師を擁する羽柴秀吉(『絵本太閤記』の挿絵)
天正8年(1580年)、織田信忠の長子として生まれた。
幼名は三法師。
母・徳寿院は塩川長満の娘、森可成の娘、あるいは武田信玄の娘・松姫とも。
なお、母が松姫の場合、武田信玄の外孫という事になる。
『美濃国古蹟考』によると、和田孫太夫女であるという。
高野山悉地院過去帳は母方の祖母を進藤氏としており、進藤氏の娘の可能性もある。
天正10年(1582年)の本能寺の変の際、父・信忠の居城岐阜城に在城していたが、前田玄以、長谷川嘉竹らに保護されて清洲城へと避難した。
同年、清洲会議において羽柴秀吉の周旋により、わずか3歳で織田弾正忠家の家督を相続し、直轄領として近江国中郡20万石を得る。
代官は堀秀政が務めた。
この際の決定で安土城に移ることになったが、叔父の織田信孝によって岐阜城に留め置かれた。
これを発端として、秀吉と信孝は干戈を交えることとなった。
信孝が敗れて降伏した後は、一応の整備がなった安土城仮屋敷へ移り、織田家の家督代行となった織田信雄の後見を受けた。
織田氏の家督継承は織田政権の解体と豊臣政権の確 ……
織田秀信が亡くなってから、419年と117日が経過しました。(153157日)