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織田信忠(おだのぶただ)

戦国大名[日本]

(天正10年6月2日没)

(グレゴリオ暦) 1582年 7月1日 死去自刃享年26歳

織田信忠 - ウィキペディアより引用

織田 信忠(おだ のぶただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
岐阜城城主。
父・織田信長から尾張・美濃の大名織田氏の家督を譲られる。
天正10年(1582年)3月に甲斐武田氏を滅ぼして甲斐・信濃に勢力を拡大し、信長は「天下の儀も御与奪なさるべき」との意向だったが、3か月後の本能寺の変で信長は本能寺、信忠は二条新御所にて自刃した。
生涯= 少年期= 弘治3年(1557年)、織田信長の長男として尾張国清洲城で生まれる。
『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)では生駒家宗の娘を母とする。
「織田家譜」では、生駒家長の妹を母としており、『寛政譜』と同じ。
「崇福寺宛信忠書状」では実母は不明とする。
信長の正室濃姫が信忠を養子にしたともいう(『勢州軍記』)。
乳母は慈徳院(滝川氏)。
幼名は奇妙(丸)。
元服して、菅九郎(勘九郎とも)と称した。
永禄年間に織田氏は美濃国において甲斐国の武田領国と接し、東美濃国衆・遠山直廉の娘龍勝院が信長の養女となり、武田信玄の世子である諏訪勝頼の正室となって、婚姻同盟が成立していた。
『甲陽軍鑑』によれば、永禄10年(1567年)11月に勝頼夫人が死去し、武田との同盟関係の補強として信忠と信玄六女・松姫と婚約が成立したという。
武田・織田間は友好的関係を保ち続けていたが、永禄年間に武田氏は織田氏の同盟国である徳川家康の領国にあたる三河・遠江方面への軍事侵攻し、元 ……