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織田信忠(おだのぶただ)

戦国大名[日本]

(天正10年6月2日没)

(グレゴリオ暦) 1582年 7月1日 死去自刃享年26歳

 - ウィキペディアより引用

織田 信忠(おだ のぶただ)は、安土桃山時代の武将・大名。
織田信長の嫡男で、信長の生前に家督を譲られた。
生涯 少年期 弘治元年(1555年)から同3年(1557年)間に、織田信長の長男(信正が実在すれば次男)として尾張国で生まれる。
実母は生駒吉乃(久庵慶珠)。
乳母は慈徳院。
なお濃姫が織田信忠を養子としたという説もある(勢州軍記)。
幼名は奇妙丸。
元服してはじめ勘九郎信重(のぶしげ)を名乗り、のちに信忠と改める。
永禄年間に織田氏は美濃国において甲斐国の武田領国と接し、東美濃国衆・遠山直廉の娘が信長の養女となり、武田信玄の世子である諏訪勝頼の正室となって、婚姻同盟が成立していた。
『甲陽軍鑑』に拠れば永禄10年(1567年)11月に勝頼夫人が死去し、武田との同盟関係の補強として信忠と信玄五女・松姫と婚約が成立したという。
武田・織田間は友好的関係を保ち続けていたが、永禄年間に武田氏は織田氏の同盟国である徳川家康の領国にあたる三河・遠江方面への侵攻を開始し、元亀3年(1572年)に信玄は信長と敵対した将軍・足利義昭の信長包囲網に呼応して織田領への侵攻を開始し(西上作戦)、これにより武田・織田間は手切となり、松姫との婚約は事実上解消されている。

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の言及 【尾張国】より …旧国名。尾州。現在の愛知県の西半部にあたる。【古代】東海道に属する上国(《延喜式》)。面積の約6割が濃尾平野の南半部にあたる肥沃な沖積平野で,古墳の分布などから推察すれば,北部の犬山市や一宮市,北東部の春日井市あたりにも豪族の拠点があったと考えられる。しかし国全体を統轄する地位を確保したのは,平野南部の熱田台地に本拠をおく尾張国造たる尾張氏であろう。尾張氏は,ヤマトタケル伝説を媒介として,皇室とのつながりを誇示する豪族であった。… 【甲州征伐】より …1573年(天正1)信玄の没後武田家をついだ勝頼は,75年に長篠の戦で織田信長,徳川家康の連合軍に敗れ,以後武田家は衰退に向かった。これに対し信長は82年2月に武田氏追討の兵をおこし,主力の織田信忠軍は木曾口と岩村口から進撃して,伊那の諸城を次々に陥れた。また家康も駿河口から攻撃を開始し,武田氏の一族穴山梅雪を味方にした。… 【本能寺の変】より …信長は1日夜を茶会,囲碁で過ごし深夜就寝したが,鉄砲の音ではじめて光秀の襲撃を知り,森乱法師(蘭丸)等近臣と防戦のすえ火中で自殺した。父より早く上洛していた織田信忠も1日深夜本能寺から妙覚寺に帰り,2日朝村井貞勝等の通報で襲撃を知り,本能寺に入ろうとしたが及ばず,誠仁親王の二条御所にこもって防戦のすえ自殺した。光秀はその日午後京都をたって近江に向かったが,山岡景隆が瀬田橋を焼いたのでいったん坂本に行き,5日安土を占領,8日再び坂本城に帰った。… ※「織田信忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 (引用元 コトバンク)