尼子勝久(あまごかつひさ)
戦国武将[日本]
(天正6年7月3日没)
(ユリウス暦) 1578年 8月6日 死去自害享年26歳

尼子 勝久(あまご かつひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
尼子経久の曾孫、尼子義久のはとこに当たり、いとこにも当たる。
尼子再興軍の総大将となった。
生涯=
天文22年(1553年)、尼子誠久の五男として生まれる。
天文23年(1554年)、祖父の尼子国久、父の誠久ら新宮党が尼子晴久によって粛清された際、小川重遠によって助けられる。
後に東福寺の僧となった。
永禄9年(1566年)、尼子義久の代に、毛利元就の侵攻を受けて尼子氏は滅亡する。
勝久は、尼子家の再興を図る山中幸盛・立原久綱らに擁立されて還俗し、隠岐国で機会を窺うこととなる。
永禄12年(1569年)6月、勝久らは出雲国に入り、忠山城(八束郡千酌)に拠る。
のち、新山城に移った。
続いて月山富田城奪還を目論むが、城将・天野隆重は籠城し、攻略は進まなかった。
当時、毛利軍は大友氏との戦闘のため北九州に布陣していた。
永禄13年(1570年)1月になり、毛利軍は、毛利輝元を主将として、吉川元春、小早川隆景らと共に出雲に兵を進めた。
同月から2月にかけて、尼子方の多久和城、布部城は毛利軍に攻撃された。
布部山の戦いで毛利軍と戦って敗北を喫し、京都へ逃れた。
天正2年(1574年)、因幡国の山名豊国の支援を得て今度は因幡からの出雲侵攻を企てるがこれも失敗に終わった。
その後は織田信長の傘下に入り、羽柴秀吉の中国方面軍に付けられ、天正5年(1577年)には宇 ……