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尼子経久(あまごつねひさ)

戦国大名[日本]

(ユリウス暦) 1541年 11月30日 死去享年84歳

尼子経久 - ウィキペディアより引用

尼子 経久(あまご つねひさ)(經久)は、戦国時代 (日本)の武将・大名。
出雲守護代、のち出雲守護。
十一ヶ国太守と言われる。
生涯= 少年期= 長禄2年(1458年)11月20日、出雲守護代・尼子清定の嫡男として出雲国に生まれる。
幼名は又四郎。
文明6年(1474年)、人質として出雲・飛騨・隠岐・近江守護を務める主君・京極政経の京都屋敷へ送られ、京都に滞在する。
滞在中に元服し、京極政経の偏諱を賜り、経久と名乗る。
5年後、出雲国に下向する。
文明10年(1478年)までに父から家督を譲られた。
家督継承= 当初は京極氏側の立場であったが、次第に国人衆と結びつきを強くし、室町幕府の命令を無視して政経の寺社領を押領し、美保関公用銭の段銭の徴収拒否などを続けて独自に権力基盤を築く。
だが、その権力基盤の拡大途上で西出雲の塩冶氏と対立するなど、権力拡大には限界があった。
これらの行動が原因となり幕府・守護・国人からも反発を受け、文明16年(1484年)に居城を包囲され、守護代の職を剥奪されて出雲から追放されたと後世の軍記物では書かれている。
しかし、守護代の職を追われたのみであり、出雲に在国したまま一定の権力は保有していた。
実際に長享2年(1488年)、出雲の国人・三沢氏を攻撃し降伏させるなど、その権力は衰えてはいなかった。
ただ、守護代の地位に返り咲き、完全復権を果たしたのは明応9年(1500年)であり、近江国でお家騒動(京極 ……

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