北条煕時(ほうじょうひろとき)
武将、鎌倉幕府第12代執権[日本]
(正和4年7月18日没)
(ユリウス暦) 1315年 8月18日 死去享年37歳

北条 煕時(ほうじょう ひろとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。
鎌倉幕府12代執権(在職:正和元年6月2日(1312年7月6日) - 正和4年7月11日(1315年8月11日))である。
父は北条為時 (政村流)で、第7代執権・北条政村の曾孫にあたる。
正室は第9代執権の北条貞時の娘。
生涯=
弘安2年(1279年)、北条為時の子として生まれる。
初名は貞泰(さだやす)[1][注釈 1][注釈 2]、のち煕時に改名。
引付衆などを務めていたが、嘉元3年(1305年)4月に嘉元の乱が起こり、連署の祖父(政村の子で為時の父)時村が内管領の北条宗方に討たれ、続いて宗方が得宗の北条貞時に滅ぼされた。
この嘉元の乱では煕時も宗方に命を狙われた[1]。
なお、この頃までには貞時の娘と結婚していた[1]。
同年、時村に代わって長門・周防両国守護(長門探題)となる。
延慶2年(1309年)3月に引付再編が行なわれて1番頭人となる[5]。
4月9日には金沢貞顕と共に寄合衆に加えられ(『金沢文庫古文書』324号)[1][5]、この頃から煕時は貞時や貞顕らと共に幕政を実質的に主導する立場の1人になった。
8月27日には引付1番頭人を辞任している[6][1]。
しかし延慶3年(1310年)2月18日に復職した[1]。
応長元年(1311年)9月に第10代執権の北条師時が死去して連署だった大仏宗宣が第11代執権に就任すると、10月3日に煕時は連署に就任した[1][7]。
10月26日には貞時が死去し、幼少の高時が得宗を継ぐ。
正和元年(1312年)5月29 ……