市河寛斎(いちかわかんさい)
儒学者、漢詩人[日本]
(文政3年7月10日没)
1820年 8月18日 死去享年72歳
市河 寛斎(いちかわ かんさい、寛延2年6月16日(1749年7月29日) - 文政3年7月10日(1820年8月18日))は、江戸時代の儒学者、漢詩人。
名は世寧、通称は小左衛門、字は子静、嘉祥、号は寛斎、半江、江湖詩老。
岳父に多胡碑を紹介した書家の高橋道斎、子に幕末の三筆・市河米庵、画家の鏑木雲潭らがいる。
概説=
市河家は清和源氏に連なり、甲斐武田氏の庶流にあたるとされる。
市河家は上野国甘楽郡(現在の群馬県)で帰農していたが、寛斎の父・好謙(蘭台)が山瀬家の養子となって館林藩秋元氏に仕えた。
寛斎は山瀬好謙の次男として寛延2年(1749年)6月16日、江戸に生まれた。
当初は山瀬新平を名乗り、兄・一英とともに館林藩に仕官した。
寛斎は安永4年(1775年)に館林藩を退き甘楽郡に移り、祖父・市河小左衛門の名乗りを継いだ。
下仁田の書家・学者の高橋道斎の養女の婿となったが、ほどなく離縁し江戸に出てしまった。
その後に生まれた子が克順であるとされている。
江戸では林家に学び、天明3年(1783年)には林家の私塾・昌平黌の学頭の地位に就いたが、天明7年(1787年)に病気を理由に退いた。
寛政2年(1790年)に寛政異学の禁を批判したため昌平黌を追われ、寛政3年(1791年)から文化8年(1811年)まで富山藩藩校広徳館の教授となった。
また掛川藩世子の侍講も務めた。
文化10年(1813年)には長崎奉行・牧野成傑に招かれて長崎に翌年まで滞在している。
また、 ……
市河寛斎が亡くなってから、204年と94日が経過しました。(74605日)