蔀関月(しとみかんげつ)
浮世絵師[日本]
(寛政9年10月21日没)
1797年 12月8日 死去享年51歳
蔀 関月(しとみ かんげつ、延享4年〈1747年〉 - 寛政9年10月21日〈1797年12月8日〉)とは、江戸時代中後期の大坂で活動した浮世絵師。
「巴御前出陣図」 東京国立博物館蔵
来歴=
月岡雪鼎の門人。
蔀関牛の父。
姓は柳原、名は徳基。
俗称は源二郎または源次郎、のちに略して原(阮)二(げんじ)と称した。
字は子温。
関月、荑楊斎、菁莪堂と号す。
大坂で版元の千草屋を営みながら絵本を描いた。
月岡雪鼎に絵を学び、主に明和(1764年-1772年)から安永(1772年-1781年)にかけて大坂で活躍し、一家を成した。
安永以降は和漢の画法を研鑽し雪舟に私淑、安永中期には絵師専業になり、姓を蔀に改め関月と号した。
天明2年(1782年)10月には、仁和寺より法橋位を与えられている。
更に、関月は天明8年(1786年)に朝廷から法橋位を取り直している。
これは天明の大火後の御所再建に伴う障壁画制作への参加を有利にするためだと推測されるが、僧位を取り直すという行為は仁和寺との関係を拗らせ、関月は結局御所の障壁画制作には加われなかった。
交友関係では、懐徳堂関係者が特筆される。
天明3年(1783年)から寛政4年(1792年)まで懐徳堂が火事に遭うまで、堂内の三宅春楼旧宅に借家住まいしてここで学び、詩文書道にも堪能であった。
そのため、しばしば関月の絵には中井竹山や中井履軒の賛を伴い、特に竹山の賛が多い。
懐徳堂との関係は関月が亡くなるまで続いた。
ま ……
蔀関月が亡くなってから、226年と346日が経過しました。(82893日)