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亀井茲矩(かめいこれのり)

戦国武将[日本]

(慶長17年1月26日没)

1612年 2月27日 死去享年56歳

亀井 茲矩(かめい これのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
因幡鹿野藩初代藩主。
生涯= 尼子再興軍から豊臣秀吉の家臣へ= 弘治3年(1557年)、尼子氏の家臣・湯永綱の長男として出雲国八束郡湯之荘(現在の島根県松江市玉湯町)に生まれる。
尼子氏が毛利元就によって滅ぼされると流浪の身となった。
流浪時代については定かでないところも多い。
潜伏先は京都であったらしく、尼子氏の残党である尼子勝久と山中幸盛に出会ったのもこの頃(永禄11年(1568年)頃)と推察される。
年齢を考えると、天正元年(1573年)9月頃に山名氏と離反するあたりから、本格的に実戦に参加し始めたものと思われる。
同年、茲矩は拠点の一つであった私都(きさいち)城を任されている。
また年代は定かではないが、幸盛との緊密な関係から、幸盛の養女(亀井秀綱の次女)を娶り、亀井姓を名乗ってその名跡を継いだ。
この頃の尼子氏再興の動きは、常に強大な毛利軍と寡兵で戦わねばならず、一時的な成果しか挙げられなかった。
ところが新興勢力である織田信長が台頭し、中国地方を伺う情勢となると、尼子残党は織田氏家臣・羽柴秀吉の傘下に入り、播磨国を転戦した。
茲矩自身は、天正5年(1577年)に、明智光秀に属して丹波国籾井郷に3,000石を知行され、松永久秀謀反後の信貴山城攻めにも参加している(『亀井家譜』)。
天正6年(1578年)に尼子勝久らが上月城 ……

亀井茲矩が亡くなってから、412年と265日が経過しました。(150748日)