山名豊国(やまなとよくに)
戦国武将[日本]
(寛永3年10月7日没)
1626年 11月25日 死去享年79歳
山名 豊国(やまな とよくに)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名、武将。
生涯=
戦国大名=
天文17年(1548年)、但馬国の大名で但馬山名家の山名豊定の次男として生まれた。
生母は室町幕府の管領・第15代細川京兆家当主細川高国の娘。
正室は伯父(豊定の兄)である山名祐豊の娘。
永禄3年(1560年)、父の豊定が死去した。
その跡を継ぐため派遣された棟豊(祐豊の子)も永禄4年(1561年)に早世し、次いで兄の豊数が因幡山名家(通称、布施屋形・布施殿)の家督を継承すると、豊国は支城であった因幡岩井城の城主とされた。
しかし、豊国と兄の豊数は、その家老の武田高信や毛利氏によって城を追われ、因幡国を追放され但馬国八束へと逃れた。
永禄7年(1564年の豊数の死後、因幡山名家の家督を継承した。
元正元年(1573年)に高信が死去すると、豊国は鳥取城を奪還し、その1ヶ月後には毛利輝元に臣従した。
また、尼子氏方に付いていた伯父の山名祐豊と毛利氏との和睦の仲介も行っている。
織田豊臣時代=
天正6年(1578年)から織田信長と誼を通じてはいたものの、幕下に入ったわけではなかった。
天正8年(1580年)に織田氏の武将羽柴秀吉が侵攻してきた。
豊国らは一旦は鳥取城に籠城するが、重臣の中村春続、森下道誉ら家臣団が徹底抗戦を主張する中、単身で秀吉の陣中に赴き降伏した。
豊国は秀吉を通じて助命された。
城主を失った鳥取城には毛利氏からの ……
山名豊国が亡くなってから、397年と359日が経過しました。(145363日)