吉川経家(きっかわつねいえ)
戦国武将[日本]
(天正9年10月25日没)
(ユリウス暦) 1581年 11月21日 死去切腹享年35歳
吉川 経家(きっかわ つねいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
毛利氏の家臣。
吉川経安の嫡男。
本姓は藤原氏。
石見吉川氏当主。
生涯=
毛利氏の石見支配の重鎮の子=
天文16年(1547年) 、大内義隆に従う石見国の国人である石見吉川氏当主・吉川経安の嫡男として生まれる。
天文23年(1554年)5月12日の防芸引分で毛利氏と大内氏が断交すると、毛利元就の次男・吉川元春が家督を相続していた吉川惣領家も毛利氏と共に大内氏から離反しているが、経家の父・経安が当主を務める石見吉川氏は引き続き大内義長に従った。
後に毛利氏に従ったが、吉川元春の家臣となったわけではない。
永禄3年(1560年)12月13日、吉川元春の嫡男・吉川鶴寿丸(後の吉川元長)の加冠を受けて元服し、「経」の一字を受けて「吉川小太郎経家」と名乗る。
翌永禄4年(1561年)、尼子氏に寝返った石見国人・福屋隆兼らが率いる5,000人に居城の福光城を攻められた際には、若年ながら父・経安とともこれを迎撃した。
その後の詳細は不明であるが、父とともに石見国の重鎮として国内の安定化に努めた。
永禄11年(1568年)1月5日、吉川元資(後の吉川元長)から「式部少輔」の官途名を与えられる。
経家が元服の際に加冠を受けた相手も吉川元長であることから、石見吉川氏は毛利氏に従属する国人であったが、経家個人としては吉川惣領家の吉川元長と強い絆で結ばれていた。
天正2年(1574 ……