松永久秀(まつながひさひで)
戦国大名[日本]
(天正5年10月10日没)
(ユリウス暦) 1577年 11月19日 死去自害享年68歳
松永 久秀(まつなが ひさひで、永正5年〈1508年〉- 天正5年10月10日〈1577年11月19日〉)は、戦国時代・安土桃山時代の武将、大和国の戦国大名である。
官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。
弟に長頼、嫡男に久通。
概要
初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。
久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。
また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に同じ官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた。
長慶の死後は三好三人衆と、時には協力し、時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。
織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。
その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。
茶人としても高名であり、茶道具と共に爆死するなどの創作も知られている。
生涯
出自と登場
永正5年(1508年)生まれ。
出身については、阿波国・山城国西岡(現在の西京区)・摂津国五百住(現在の高槻市)の土豪出身など諸説がある。
長江正一は西岡出身の商人の生まれで、斎藤道三と同郷であったと断定している。
しかし、美濃の国盗りは ……