山科言継(やましなときつぐ)
公家[日本]
(天正7年3月2日没)
(ユリウス暦) 1579年 3月28日 死去享年73歳
山科 言継(やましな ときつぐ)は、戦国時代の公卿。
山科言綱の子。
官位は正二位・権大納言、贈従一位。
現存する『歴名土代』の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。
生涯=
山科家は藤原北家四条家の分家であり、羽林家の家格であったが戦国期には他の公家と同様不振の時代を迎えていた。
天文17年(1548年)には室町幕府によって代々の家領であった山科荘が事実上横領される(天文17年5月25日)という事態に遭遇している。
そのような時代の中で言継は家業である有職故実や笙、製薬のみならず、和歌(三条西公条の門下)、蹴鞠から漢方医学や酒宴、双六などの多彩な才能の持ち主であった。
だが、彼の持った最大の特技は「人脈作り」であった。
言継は山科言綱の子であると言っても正室黒木の方(中御門宣胤の子)ではなく、女嬬(宮中に仕える身分の低い女性)の生んだ子が唯一の男子と言うことで後継ぎに立てられた経緯の持ち主で、阿末(下級女房)の世界を知って育ってきたことが、彼の人物形成(幅広い人脈形成や朝廷の庶務への関心)につながった可能性がある。
朝廷の財政の最高責任者である内蔵頭として、後奈良・正親町両天皇下で逼迫した財政の建て直しを図ることになる。
当時の朝廷財政の収入の中で最大のものは諸大名からの献金であった。
言継はその献金獲得のために各地を奔走することになった。
既に天文2年(1533年)に歌舞音曲 ……