織田信秀(おだのぶひで)
戦国武将[日本]
(天文21年没)
1552年 死去
織田 信秀(おだ のぶひで)は、戦国時代の尾張国の武将、戦国大名。
織田信長の父。
生涯=
家督相続=
尾張国南西部海東郡・中島郡に跨る勝幡城(愛知県愛西市・稲沢市)を支配する勝幡城主で、清洲三奉行の一人の織田信定の長男として永正8年(1511年)に生まれる。
信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、主家の重臣の清洲三奉行の一家で弾正忠を称した家を継いでいた。
大永年間(1521〜8年)に勝幡城を築き当時、伊勢湾に近い木曽川に臨む港と牛頭天王社(津島神社)の門前町として繁栄していた津島を支配し、同家の勢力拡大のきっかけを作る。
信秀は父・信定の生前である大永6年4月(1526年)から7年(1527年)6月の間に家督を譲られて当主となる。
家督相続からまもなく、天文元年(1532年)、主家の織田達勝と清州三奉行の一人の小田井城の織田寛故と争ったが、講和した。
この和議を固めるのと自らの威勢を示すため、翌、天文2年(1533年)7月京都から蹴鞠の宗家飛鳥井雅綱を招き、山科言継も同道してまず7月8日勝幡城で蹴鞠会を開催し、賓客たちと数100人の見物衆も含め多くが集まり、7月27日には清州城に舞台を移し、連日蹴鞠会を実施した(『言継卿記』)。
天文3年(1534年)には、嫡男の信長が誕生した。
勢力拡大=
天文7年(1538年)頃、今川氏豊の居城の那古野城(名古屋市中区)を謀略で奪い取 ……