織田信行(おだのぶゆき)
戦国武将[日本]
(永禄元年11月2日没)
(ユリウス暦) 1558年 12月11日 死去暗殺
織田 信行(おだ のぶゆき)は、戦国時代の尾張の武将。
同時代史料に見える諱は信行ではなく、信勝(のぶかつ)、達成(みちなり)、信成(のぶなり)である。
父は織田弾正忠家の織田信秀、母は土田御前で織田信長の同母弟である。
信行は、父の信秀の生前から尾張国内に判物(公的文書の一種)を発給するなど一定の統治権を有した。
信秀の死後は末森城主となって兄の信長と尾張の支配権を巡って争い、初期の信長の統治にとって大きな脅威となった。
一時は信長に代わって弾正忠家の当主を名乗ったが、稲生の戦いで敗北し、その後、信長に謀殺された。
信行の人物像について詳細は伝わらないが、信秀の葬儀において、信長が奇矯な行動をとった一方で、信行は礼儀に則った振舞いをしたという逸話がよく知られている。
また、白山を信仰していたとされ、鷹狩の名手であったという。
名前=
陽明文庫本『信長公記』。
この人物は、基本史料の一つである『信長公記』においては、一貫して「勘十郎」という通称で記されている。
勘十郎なる人物の実名は、江戸時代の『織田系図』などの系図類では「信行」と記載され、一般的にも「信行」として知られる。
しかし、信頼性の高い同時代史料では、「信行」という名を確認することはできない。
昭和44年(1969年)、新井喜久夫は、花押や通称、文書内容を検討して、「勘十郎信勝」として一次史料に残る人物が、天文23年(1554年 ……