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織田信包(おだのぶかね)

戦国武将、丹波柏原藩初代藩主[日本]

(慶長19年7月17日没)

1614年 8月22日 死去

織田信包 - ウィキペディアより引用

織田 信包(おだ のぶかね)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
丹波国柏原藩初代藩主。
信包系織田家初代。
織田信秀の4男(異説あり)で、織田信長の弟。
通称は三十郎。
なお、一時長野工藤家に養子に入り17代当主となっている。
生涯= 出生= 天文12年(1543年)7月17日あるいは天文17年(1548年)に、尾張の戦国大名・織田信秀の子として生まれた。
信長の時代= 永禄11年(1568年)2月、兄・信長の命で北伊勢を支配する長野工藤氏(長野氏)に養子入りして伊勢国上野城を居城としたが、後に信長の命令によってこの養子縁組を解消し、織田家に復した。
永禄12年(1569年)10月、伊勢大河内城が落城して北畠家が信長に臣従すると、信包は信長より伊勢安濃津城主に任命された。
その後は信長に従って各地を転戦する。
北近江小谷城で信長が義弟の浅井長政を滅亡させたとき、その正室であった妹の市とその娘たちである茶々・初・江を信包が保護したとされてきた。
しかし近年の研究によると、当初お市の方と三姉妹を保護したのは信包ではなく、信長、信包、お市たちの叔父である織田信次であることが明らかとなっている(『溪心院文』)。
天正3年(1575年)の越前一向一揆鎮圧、天正5年(1577年)の雑賀党攻め(紀州征伐)にも参加し、織田一族の重鎮として厚遇された。
後に信長の長男・信忠の補佐を任されている。
長男・信重の正室に元尾張守護・斯波義銀の ……

織田信包が亡くなってから、410年と88日が経過しました。(149841日)

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