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津田信澄(つだのぶずみ)

戦国武将[日本]

(天正10年6月5日没)

(ユリウス暦) 1582年 6月24日 死去討死

津田信澄 - ウィキペディアより引用

津田 信澄(つだ のぶずみ)は、安土桃山時代の武将。
織田氏の連枝衆(一門衆)であるが、姓は津田を称し[注釈 7]、諱は信重といった[注釈 8]。
通称を七兵衛。
近江大溝城主で、摂津大坂城代[注釈 9]。
略歴= 尾張の戦国大名・織田信秀の三男・織田信勝(信行)の嫡男として生まれる。
享年に諸説あり、このために生年は確定することができないが、織田信長の甥にあたり、その嫡男である従兄弟の織田信忠とはほぼ同年代であったと考えられる。
弘治2年(1556年)に父・信勝は謀反の企てを起こして敗北し、永禄元年(1558年)に父は伯父(信勝の兄)・信長によって暗殺された[注釈 10]。
しかしその子供達は助命され、信長の命令により柴田勝家の許で養育された。
『寛政重修諸家譜』等で、永禄7年(1564年)正月に元服して津田七兵衛信澄を称して津田氏[注釈 11]を名乗ったと記されているが、これは誤りである。
元亀2年(1571年)、佐和山城を引き渡して織田家に降った浅井氏旧臣、磯野員昌の養嗣子となった[注釈 12]。
磯野姓を名乗っていたかどうかは不明。
天正2年(1574年)2月3日に美濃岐阜城で開かれた信長主催の茶会に御通衆の「御坊様」として出席し、3月27日に信長が東大寺正倉院の蘭奢待を切り取った際にも重御奉行の「津田坊」とまだ童名で呼ばれているので、養子になるという約束だけで正式な縁組はまだ行われていなかった可能性はある。 ……

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