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吉田兼見(よしだかねみ)

京都吉田神社神主[日本]

(慶長15年8月20日歿)

1610年 10月6日 死去享年76歳

吉田兼見 - ウィキペディアより引用

吉田 兼見(よしだ かねみ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公卿・神道家。
京都吉田神社神主。
吉田神道宗家・吉田家9代当主・卜部氏25代。
『兼見卿記』(かねみきょうき)の著者としても知られる。
生涯= 天文4年(1535年)、神祇大副兼右兵衛督・吉田兼右の子として誕生。
細川幽斎の従兄弟にあたる。
元亀元年(1570年)、家督を継ぎ吉田神道の継承者となった。
初名は兼和であったが、後陽成天皇の諱(和仁)を避けて天正14年(1586年)に兼見に改名した。
足利義昭、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、細川幽斎などと交友関係は広く、信長の推挙により堂上家(家格は半家、卜部氏)の家格を獲得した。
慶長15年(1610年)、薨去。
人物・評価= 元亀4年(1573年)、足利義昭への威嚇のため、信長が上京焼き討ちをする前に庶民から悪い噂が市中に流れる事を恐れ、4月1日に織田信忠の陣見舞いに知恩院に行った時、信長に呼び出され朝廷や庶民の将軍・義昭の評判を尋ねられて、「天皇や公家や庶民にも評判が悪い」と答えて満足されている。
本能寺の変後に光秀へ2回勅使となり、その礼として光秀から銀50枚をもらい、他にも2回会った。
『兼見卿記』によると山崎の戦い後の6月14日、織田信孝の使者を名乗る津田越前入道が兼見のもとを訪れ、「朝廷と五山その外に銀子を与えたのは怪しからんことだと信孝が怒り陣所でも取りざたされている」と抗議した。
兼見は釈明し ……

吉田兼見が亡くなってから、414年と43日が経過しました。(151257日)

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