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長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)

戦国大名[日本]

(慶長4年5月19日没)

1599年 7月11日 死去享年61歳

長宗我部元親 - ウィキペディアより引用

長宗我部 元親(ちょうそかべ/ちょうすがめ もとちか)は、日本の武将、戦国大名。
長宗我部氏第21代当主。
幼名は弥三郎。
土佐国岡豊城主・国親の長男。
国司家一条氏を追い出し、土佐を統一した。
その後、各地の土豪を倒して四国を統一した。
しかし、豊臣秀吉の四国征伐によって降伏し、土佐一国の領有を許された。
秀吉の九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役に従軍した。
「長宗我部元親百箇条」を定めた。
生涯 家督相続 天文8年(1539年)、長宗我部国親の嫡子として、土佐国岡豊城で生まれる。
土佐守護・細川晴元の偏諱を受け、元親と名乗る。
永禄3年(1560年)5月、父・国親が土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいて実弟の親貞と共に初陣する。
数え年23歳という遅い初陣であったが、元親は長浜表において本山勢を襲撃した長宗我部勢に加わり、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれる。
この一戦で元親の武名は高まり、長浜戦に続く潮江城(うしおえじょう→現筆山公園)の戦いでも戦果を挙げた。
6月、父の国親が急死すると、家督を相続する。
土佐統一 元親は剽悍な一領具足を動員して勢力拡大を行う。
長浜戦で敗れた本山茂辰は元親の攻撃に押される一方となり、永禄3年末の段階で現在の高知市における南西部の一部を除いてほぼ支配下に置いた。
永禄4年(1561年)3月には本山方の神田・石立を落として茂辰を朝倉城と ……

長宗我部元親が亡くなってから、425年と131日が経過しました。(155362日)