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長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)

戦国武将[日本]

(永禄3年6月15日没)

(ユリウス暦) 1560年 7月8日 死去享年57歳

長宗我部 国親(ちょうそかべ くにちか)は、戦国時代の土佐国の大名。
長宗我部兼序の嫡男。
長宗我部氏復興に尽力した。
生涯[編集] 永正元年(1504年)、長宗我部兼序の嫡男として生まれる。
幼名は千雄丸(せんゆうまる)で、のちに土佐守護を兼ねる室町幕府の管領・細川高国より偏諱(「国」の字)を受けて、国親と名乗る。
永正6年(1509年)、父・兼序が本山茂宗などに攻められ敗死し、居城の岡豊城は落城した。落城にあたって、兼序は国親を城から脱出させた。
国親はこの時6歳であった(『長元物語』)。
国親は家臣の近藤某に伴われ幡多庄中村に赴き、土佐一条氏を頼ったとされる。
永正15年(1518年)、一条房家の仲介により本領の江村・廿枝郷を戻されて岡豊城に復帰し、以後は長宗我部家の再興に尽力した。
しかし近年の研究によると、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年頃に息子・国親へ家督を譲っている。
国親は吉田孝頼を登用して内政や軍備の充実に努めた。
天文13年(1544年)、かつての仇敵である本山茂宗の嫡男・茂辰と自分の娘を婚姻させた。
天文16年(1547年)、近隣の大津城を攻めて天竺氏を滅ぼした。
次いで大津の南にある介良の横山氏を屈服させ、下田(しもだ)の勇猛で名高い下田駿河守を討って下田城を落とした。
さらに細川定 ……

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