河尻秀隆(かわじりひでたか)
戦国武将[日本]
(天正10年6月18日歿)
(ユリウス暦) 1582年 7月7日 死去享年56歳
河尻 秀隆(かわじり ひでたか)は、戦国時代の武将。
織田氏の家臣。
黒母衣衆筆頭で、のちに織田信忠の補佐役及び美濃岩村城主を務め、甲斐国主にまで昇った。
馬印は金のつり笠。
秀隆および河尻氏に関係する文書は少なく、事跡の多くは『信長公記』や『甲陽軍鑑』、徳川氏関係の記録に記されている。
生涯=
織田信秀への出仕=
尾張国岩崎村の出身とされる。
秀隆の河尻氏と醍醐源氏の一派である肥後河尻氏との関係は不明である。
『信長公記』には織田大和守家(清洲織田氏)の家臣に同じ河尻姓の人物(河尻与一)が見られ、『美濃国諸家系譜』には秀隆が信長の命によって河尻与一郎重俊の跡を継いだとの記述がある。
このため少なくとも清洲織田氏の老臣である河尻与一と同族である可能性は高いと見られている。
秀隆は早い時期から清洲三奉行・弾正忠家の織田信秀に仕えた。
実名秀隆の「秀」の一字は信秀よりの偏諱と考えられている。
天文11年(1542年)8月、弱冠16歳で信秀に従って第1次小豆坂の戦いに参加した。
この時、今川氏の先陣を務めた足軽大将・由原と一騎打ちとなり、組討の末に討ち取るという武功を挙げた。
その後まだ部屋住みの身分であった織田信長付きの家臣として青山与三右衛門と共に選抜されており、家督相続前から仕えた最古参の家臣となる。
河尻秀隆の馬印(右)
黒母衣衆の筆頭=
信秀没後もそのまま信長に仕え、黒母衣衆の筆頭を務 ……