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奥平信昌(おくだいらのぶまさ)

戦国武将、小幡藩・加納藩藩主[日本]

(慶長20年3月14日没)

1615年 4月11日 死去

奥平信昌 - ウィキペディアより引用

奥平 信昌(おくだいら のぶまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
上野小幡藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主。
初名は貞昌(さだまさ)。
徳川家康の長女・亀姫を正室とし、家康に娘婿として重用された。
亀姫との間に家昌など4男1女を儲けた。
経歴= 服従と離反= 三河国作手(つくで)の有力国人・奥平定能(貞能)の長男。
母は牧野成種の娘。
奥平氏は祖父・貞勝の代までは今川氏に属していたが、桶狭間の戦い後に三河における今川氏の影響力が後退すると、徳川家康の傘下となり遠江掛川城攻めに加わった。
元亀元年(1570年)姉川の戦いで信昌は敵2騎を斬って、その首を家康に差し出して、大いに感心された。
元亀元年(1570年)12月、武田氏の重臣の秋山虎繁が2500余騎を率いて東美濃の遠山氏の領地の一部を通って奥三河へ侵攻しようとした際に、信昌と父の奥平定能は徳川方として山家三方衆と三河衆2,500人と共に、同盟する遠山氏と共に武田(秋山軍)と対峙し、三河との国境の美濃国恵那郡上村にて戦闘が行われた(上村合戦)。
数の上で有利だった遠山・徳川連合軍だったが、遠山氏が惨敗した様子を見て、既に武田方とも内通していた奥平定能親子ら山家三方衆と三河衆は殆ど戦わずして城へ逃げ入った。
その後は武田氏に属した。
元亀4年(1573年)ごろ、家康は奥三河における武田氏の勢力を牽制するため有力な武士団・奥平氏を味方に引き入 ……

奥平信昌が亡くなってから、409年と222日が経過しました。(149609日)

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