石田三成(いしだみつなり)
戦国武将[日本]
(慶長5年10月1日没)
1600年 11月6日 死去斬首享年41歳

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。
豊臣家家臣。
豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。
豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。
生涯=
石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町)
永禄3年(1560年)、石田正継の三男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で誕生した。
幼名は佐吉。
長男・石田弥治郎は早逝している。
石田氏は平姓または藤原姓を称しており、その発祥は定かではない。
北面武士であった下毛野朝臣の一族、もしくは三浦氏流蘆名支流である相模国大住郡糟屋庄石田郷(現・神奈川県伊勢原市石田)の住人石田為久(為重)の後裔であったともされる。
石田村は古くは石田郷ともいい郷名を苗字とした土豪であったともいわれている。
石田三成の名の読みについては、江戸時代成立の『甲子夜話』などに「かずしげ」とする説があるが、自筆の仮名消息が現存しないため確定はできない。
若年期の署名として「三也」と記されたものが存在し、初名であるとする説や、「成」と「也」を併用していたとする説もある。
関ヶ原後に三成から一字を与えられた相馬三胤が「蜜胤」に改名していることなどから、現在では「みつなり」と読むのが妥当とされている。
羽柴秀吉が織田信長に仕え ……
石田三成が亡くなってから、424年と142日が経過しました。(155008日)