福島正則(ふくしままさのり)
戦国大名、広島藩主[日本]
(寛永元年7月13日没)
1624年 8月26日 死去享年64歳
福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての日本の武将で、大名。
賤ヶ岳の七本槍、七将の一人としても知られている。
安芸国広島藩主、後に信濃高井野藩の初代藩主。
生涯=
秀吉の子飼いとして=
福島正則の生誕地とされている場所に建つ、新旧2つの石碑 / 愛知県あま市二ツ寺屋敷に所在。
永禄4年(1561年)、市松(幼名)は尾張国海東郡二ツ寺村(現・愛知県あま市二ツ寺屋敷)で桶屋を営む福島正信(正光)の長男として生まれたという。
しかし、父・正信は義父であったともいわれている。
後者の場合、実父と目されているのは、同国春日井郡の清洲村界隈(旧・愛知県西春日井郡清洲町、現在の清須市の中核地域)の桶大工、および、星野成政である。
母は、秀吉(のちの豊臣秀吉)の母(のちの大政所)の妹(秀吉の叔母)にあたる人物である。
少年に成長すると、母を通じた縁で秀吉の小姓になる。
天正6年(1578年)、播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。
始めの禄高は200石であった。
天正10年(1582年)、山崎の戦いにおいて、勝龍寺城を攻撃するなどして軍功をあげ、300石を加増されて500石となった。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて、一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5,000石を与えられた(他の6人は3,000石)。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは ……
福島正則が亡くなってから、400年と84日が経過しました。(146184日)