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長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか)

戦国武将[日本]

(天正14年12月12日没)

1587年 1月20日 死去討死享年23歳

長宗我部信親 - ウィキペディアより引用

長宗我部 信親(ちょうそかべ のぶちか)は、安土桃山時代の武将。
土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男。
生涯= 出生と活躍= 永禄8年(1565年)、土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男として誕生した。
母は元親の正室で足利義輝の家臣・石谷光政の娘(明智光秀の家臣・斎藤利三の異父妹)。
天正6年(1578年)10月、元親が織田信長と誼を通じたとき、信長の「信」を与えられ、「信親」を名乗る。
その際、信長から左文字の銘刀と名馬を与えられた。
元親の思惑と信長の戦略が一致したもので、元親の外交の巧みさと、明智光秀の発信力があったことによる成果である。
その後は父に従って各地を転戦した。
信長没後の天正13年(1585年)、長宗我部氏は豊臣秀吉の四国攻めに降伏し、豊臣政権配下で土佐一国を領する大名となる。
戸次川の戦いと最期= →詳細は「戸次川の戦い」を参照 天正14年4月5日、豊後の大友宗麟は豊臣秀吉に大坂で面会し、島津義久が豊後に進入してきたことを訴え救援を求めた。
秀吉はこれを了承し、黒田孝高に毛利の兵を総括させて先発させ、さらに讃岐の仙石秀久を軍監に任じ、長宗我部元親・信親を加え豊後に出陣を命じた。
島津家久が豊後に侵入し、大友氏の鶴ヶ城を攻撃した。
12月11日、仙石秀久と長宗我部信親は、これを救援しようと戸次川に陣をしいた。
戦略会議において仙石は川を渡り攻撃するべきと主張した(『土佐物語』)。
これに ……

長宗我部信親が亡くなってから、439年と59日が経過しました。(160404日)

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