長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか)
戦国武将[日本]
(天正14年12月12日没)
1587年 1月20日 死去討死享年23歳
長宗我部 信親(ちょうそかべ のぶちか)は、安土桃山時代の武将。
土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男。
生涯=
出生と活躍=
永禄8年(1565年)、土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男として誕生。
母は元親の正室で足利義輝の家臣・石谷光政の娘(明智光秀の家臣・斎藤利三の異父妹)。
幼少時から聡明であったため父から寵愛され、天正3年(1575年)に元親が中島可之助を使者として織田信長と誼を通じたとき、信長を烏帽子親として信長の「信」を与えられ、「信親」を名乗る。
このとき、信長から左文字の銘刀と名馬を与えられた。
元親の思惑と信長の戦略が一致したもので、元親の外交の巧みさと、明智光秀の発信力があったことによる成果である。
なお、2013年に発見された『石谷家文書』(林原美術館所蔵)に所収された元親から石谷頼辰(信親の生母の義兄にあたる)に充てられた書状の中でこの信親が一字を与えられた際に信長は荒木村重を攻めていたと書かれており、荒木村重の反乱が発生した天正6年(1578年)に比定する説もある。
その後は父に従って各地を転戦した。
信長没後の天正13年(1585年)、長宗我部氏は豊臣秀吉の四国攻めに降伏し、豊臣政権配下で土佐一国を領する大名となる。
戸次川の戦いと最期=
→詳細は「戸次川の戦い」を参照
天正14年4月5日、豊後の大友宗麟は豊臣秀吉に大坂で面会し、島津義久が豊後に進入してきたことを訴え救援を求めた。
秀吉 ……
長宗我部信親が亡くなってから、437年と303日が経過しました。(159917日)