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長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)

戦国大名[日本]

(慶長20年5月15日没)

1615年 6月11日 死去斬首享年41歳

長宗我部盛親 - ウィキペディアより引用

長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか)は、安土桃山時代から江戸時代前期の土佐国の大名・武将。
長宗我部氏第22代当主。
長宗我部元親の四男。
戦国大名としての長宗我部氏の最後の当主。
父・元親の死後に長宗我部家の家督を継ぐ。
関ヶ原の戦いで西軍に属すが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表した。
しかし、帰国直後に重臣たちが浦戸一揆を起こしたことをとがめられ、領国を没収され浪人となった。
のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大坂城に入城、大坂の陣が勃発し、戦闘に参加したが敗北。
再起を図るため、逃亡したが捕らえられた後、処刑された。
生涯= 家督相続= 天正3年(1575年)、長宗我部元親の四男に生まれる。
幼名は千熊丸。
天正14年(1586年)の戸次川の戦いで長兄の長宗我部信親が戦死すると、兄の香川親和や津野親忠を推す一派と家督相続をめぐって争うが、父の後押しがあり、天正16年(1588年)に世子に指名された。
この家督相続には吉良親実をはじめとして反対する者が少なくなかった。
その理由のひとつは、元々盛親は兄弟の中でも傲慢で短気な性格から人望が薄く、嫌悪感を持つ者がいたからである(しかし元親はそれらを全て処断している)。
元親が少年である千熊丸を世子に指名した理由は、親和と親忠は他の家系を既に継いでいたこと、何よりも溺愛していた信親の娘を娶わせるには上の2人では年齢差が ……

長宗我部盛親が亡くなってから、409年と185日が経過しました。(149572日)

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