大友宗麟(おおともそうりん)
戦国大名[日本]
(天正15年5月23日没)
1587年 6月28日 死去享年58歳

大友 義鎮(おおとも よししげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
大友氏の21代当主。
宗麟(そうりん)の法号で知られている。
キリスト教にも受洗、洗礼名は、ドン・フランシスコ。
ポルトガル国王からは「Rey de BVNGO」(豊後の王)、カンボジア国王からは「日本九州大邦主」と称された。
父は20代当主・大友義鑑。
母は公家の坊城氏の娘とする説がある。
弟に大内義長、塩市丸、親貞など[注釈 1]。
子に義統(吉統)、親家、親盛など。
中国明朝への遣明船の派遣をはじめ、琉球、カンボジア、ポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交[注釈 2][注釈 3]により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。
歴代当主同様に禅宗に帰依するとともに、後にキリスト教への関心も強めて洗礼を受けた。
最盛期には九州6か国を支配して版図を拡げた。
しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名となった。
大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて、少弐氏・島津氏と共に九州の幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の九州進出に対し、少弐氏と結び大内氏と抗争していた。
大友氏は豊後国と筑後国の守護に幕府より代々補任される、いわゆる守護大名であった。
生涯=
家督相続=
享禄3年(1530 ……
大友宗麟が亡くなってから、438年と0日が経過しました。(159979日)