狩野永徳(かのうえいとく)
絵師[日本]
(天正18年9月4日没)
1590年 10月12日 死去享年48歳
狩野 永徳(かのう えいとく、天文12年1月13日(1543年2月16日) - 天正18年9月14日(1590年10月12日))は、安土桃山時代の絵師。
狩野派(室町時代から江戸時代まで日本画壇の中心にあった画派)の代表的な画人であり、日本美術史上においても著名な画人の1人である。
現存する代表作に『唐獅子図屏風』『洛中洛外図屏風』『聚光院障壁画』 『上杉本洛中洛外図屏風』などがある。
概要=
永徳は狩野松栄の息子で、狩野元信の孫にあたる。
永徳は法号で名は源四郎、諱は州信(くにのぶ)。
狩野派の棟梁として織田信長、豊臣秀吉という天下人に仕え安土城、聚楽第、大坂城などの障壁画を制作した。
永徳が力を振るったこれらの代表的な事績は建物とともに滅びてしまったものが多く、真筆とされる現存作品は比較的少ない。
永徳といえば『唐獅子図』や『檜図』のような雄大なスケールの豪快な作品(大画)がよく知られるが、細部を緻密に描写した「細画」もよくしたとされる(『本朝画史』)。
現存する代表作の1つである上杉本『洛中洛外図』は、彼が細密描写に秀でていたことを示している。
生涯=
天文12年(1543年)、松栄の長男として京都で生まれる。
最初に永徳の事績が記録に現れるのは山科言継の日記『言継卿記』の天文21年1月29日(1552年2月23日)の条で、この日に狩野法眼(元信)が孫を連れて将軍・足利義輝に拝謁したことが記録されており、この「孫」が当時10歳(数え年) ……
狩野永徳が亡くなってから、434年と37日が経過しました。(158556日)