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狩野元信(かのうもとのぶ)

狩野派絵師[日本]

(永禄2年10月6日没)

(ユリウス暦) 1559年 11月5日 死去

狩野元信 - ウィキペディアより引用

狩野 元信(かのう もとのぶ、 文明8年8月9日(1476年8月28日)? - 永禄2年10月6日(1559年11月5日))は、室町時代の絵師。
狩野派の祖・狩野正信の子(長男または次男とされる)で、狩野派2代目。
京都出身。
幼名は四郎二郎、大炊助、越前守、さらに法眼に叙せられ、後世「古法眼」(こほうげん)と通称された。
弟は雅楽助。
父・正信の画風を継承するとともに、漢画の画法を整理(後述)しつつ大和絵の技法を取り入れ(土佐光信の娘千代を妻にしたとも伝えられる)、狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた。
略歴[編集] 細川澄元像 10才の時、将軍足利義尚の近侍となり、足利義澄にも仕えたとされる。
製作年が明らかな最初の絵師としての作例は、永正4年(1507年)細川澄元の出陣影の制作である。
記録上の初見は永正10年(1513年)で、細川高国の命で『鞍馬寺縁起絵』を制作している。
現存する大徳寺大仙院の障壁画は、同院創建時の永正10年(1513年)の制作とするのが通説であったが、大仙院方丈の改築が行われた天文4年(1535年)の作とする見方もある。
元信は60歳代にあたる天文年間に以下のような大きな仕事に携わっている。
まず、天文8年(1539年)から約15年間、石山本願寺の障壁画制作に携わった。
この間、天文12年(1543年)には内裏小御所、同じ頃には妙心寺霊雲院の障壁画を描き、天文14年(1545年)頃に法眼(僧の位の一つ)を与えられている。

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