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策彦周良(さくげんしゅうりょう)

・臨済宗[日本]

(天正7年6月30日入寂)

(ユリウス暦) 1579年 7月23日 死去享年79歳

策彦周良 - ウィキペディアより引用

策彦周良(さくげんしゅうりょう、文亀元年4月2日(1501年4月19日) - 天正7年6月30日(1579年7月23日))は、戦国時代の臨済宗の禅僧、外交官。
号は策彦のほか謙斎、怡斎、怡雲子など。
生涯= 五山の俊英= 文亀元年(1501年)、室町幕府管領細川氏の家老井上宗信の三男として丹波に生まれる。
永正6年12月24日(1510年2月2日)に、京都北山の鹿苑寺の心翁等安のもと仏門に入る。
同8年に起きた船岡山合戦で鹿苑寺から焼け出され、師とともに丹波に逃れる。
永正15年(1518年)、18歳に至って天竜寺にて剃髪、具足戒を受け、諱を周良とする。
五山文学の影響下、等安から漢籍・詩文の手ほどきを受け、漢文力を磨く。
大永2年(1522年)に師の等安が入寂。
天竜寺の塔頭妙智院の住職となる。
二度の入明= 天文6年(1537年)周防国の戦国大名大内義隆の主催により、明に勘合貿易船(遣明船)を派遣を計画した際に、副使に任命される(正使は湖心碩鼎)。
寧波の乱以降、日明貿易の主体は大内氏に移っていたが、形式上は室町幕府の正式な使節であった。
実際には翌々年の4月19日(1539年5月7日)に3隻に分乗した460名の船団を率い五島列島を出帆する。
同5月2日温州府に到着。
しばらく同地に滞在し、翌年3月2日北京に入城、朝貢任務を果たす。
5月28日(7月2日)に北京を離れて寧波へ向かい、風待ちの後、帰国したのは同10年6月26日(1541年7月19日)であった。
天文16年(1547年)には二度目の渡 ……

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