甲斐庄楠音(かいのしょうただおと)
日本画家、風俗考証家[日本]
1978年 6月16日 死去喘息の発作享年85歳
甲斐荘(庄) 楠音(かいのしょう ただおと、1894年〈明治27年〉12月13日 - 1978年〈昭和53年〉6月16日)は、大正時代の日本画家、昭和20年代 - 30年代の風俗考証家である。
本姓は「甲斐荘」。
兄に高砂香料工業創業者である甲斐庄楠香がいる。
20代前後
略伝=
京都市生まれ。
甲斐庄氏は楠木正成末裔を自称した一族で、江戸時代に徳川光圀の推挙で9500石の大身旗本となった裕福な武士であった。
父・正秀は甲斐庄氏の跡継ぎ養子となったものの、後に離縁となり別家を建てたという事情があり、その時の慰謝料で京都に広大な土地を購入した。
楠音はその父の元で経済的に恵まれた少年時代を送った。
生家は京都御所の東南にあり、楠音の妹は「暮らしぶりはまったくのお大名の殿様」のようだったと回想している。
しかし、幼少時から喘息を患い病弱であり、過保護に育てられた。
体格も華奢で、後には芝居の女形に扮することもあった。
京都府立第一中学に入学してから絵画への関心が高まり、京都市立美術工芸学校に転校して竹内栖鳳らに学ぶが、授業にほとんど出席しなかったため1年留年してしまう。
その後、専門学校、研究科と進む中でいくつかの展覧会に出品し、村上華岳に認められるようになり、1915年(大正4年)、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業。
同窓生であった岡本神草、入江波光、玉村方久斗らと前衛的日本画研究集団「密栗会」の結成に参加した。
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甲斐庄楠音が亡くなってから、46年と158日が経過しました。(16960日)