村上華岳(むらかみかがく)
日本画家[日本]
1939年 11月11日 死去喘息享年52歳
村上 華岳(むらかみ かがく、1888年〈明治21年〉7月3日 - 1939年〈昭和14年〉11月11日)は、大正~昭和期の日本画家。
略歴=
裸婦図
日高河清姫図
1888年(明治21年)、大阪(北区松ケ枝町)に生まれる。
本名は武田震一(のち村上震一)。
甲州武田氏の末裔。
家庭の事情により幼い頃に実父母のもとを離れ、叔母の嫁ぎ先である神戸の村上家に預けられて、神戸の小学校に通った。
1901年(明治34年)、震一13歳の時には実父が死に、実母は再婚して行方知れずとなり、少年であった震一が武田家の家督を継ぐこととなった。
3年後の1904年(明治37年)、武田家の廃家が許可され、震一は養父母の姓である「村上」を名乗ることとなる。
父方の祖母は、日本初の感化院とされる「池上感化院」を自宅に設立した池上雪枝。
華岳こと村上震一は、1903年(明治36年)から1907年(明治40年)まで京都市立美術工芸学校に学ぶ。
1909年(明治42年)には上級学校である京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学して1911年(明治44年)に卒業。
卒業と同時に同専門学校研究科に進学、1913年(大正2年)に修了している
1908年(明治41年)から文展に出品を始めた。
京都市立絵画専門学校の卒業制作『早春』(のち『二月の頃』と改題)は京都の吉田山から銀閣寺方面を眺めた田園風景を遠近法を用いて俯瞰的に描写したもので、1911年(明治44年)の第5回文展で褒状を受けている。
1916年(大正5年)には華岳 ……
村上華岳が亡くなってから、85年と11日が経過しました。(31057日)