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狩野山楽(かのうさんらく)

絵師[日本]

(寛永12年8月19日没)

1635年 9月30日 死去享年77歳

狩野山楽 - ウィキペディアより引用

狩野 山楽(かのう さんらく、永禄2年(1559年) - 寛永12年8月19日(1635年9月30日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の狩野派の絵師。
狩野山雪の養父。
狩野一族ではないが狩野永徳の門下に入り改姓、永徳亡き後は豊臣秀吉・秀頼父子の2代に渡り絵師として豊臣氏に仕えた。
そうした経歴が災いして窮地に陥るも九条幸家らの助命嘆願で救われ、彼を中心とする関係者に作品を提供する一方で江戸幕府からの注文もこなし、障壁画・屏風に永徳風の作品を残した。
江戸へ移った狩野派と疎遠になり、京都に留まった山楽の子孫は京狩野と称された。
経歴[編集] 狩野派の門下に入る[編集] 元禄6年(1693年)に山楽の孫狩野永納が書いた『本朝画史』によると、浅井長政の家臣木村永光の子・木村光頼として近江国蒲生郡に生まれる。
幼名は平三。
『本朝画史』とは別に、永納が提供した情報を参考にして寛文9年(1669年)に林鵞峰がまとめた史料である『狩野永納家伝画軸序』でも山楽の出自が記され、母は伝承では益田氏、山楽は佐々木氏の末裔かと記されている。
父・永光は余技として狩野元信に絵を習っていた。
天正元年(1573年)の15歳の時、浅井氏が織田信長によって滅ぼされてからは豊臣秀吉に仕え、秀吉の命により狩野永徳門下となる。
『本朝画史』では秀吉の命で永徳と父子の義を結び狩野姓を許され、修理亮を称したが、それが何時なのかは分かっていない。
また山楽はこの時、 ……

関連作品

狩野山楽が亡くなってから、388年と298日が経過しました。(142015日)