狩野永敬(かのうえいけい)
京狩野家絵師[日本]
(元禄15年9月18日没)
1702年 11月7日 死去享年41歳
狩野 永敬(かのう えいけい、寛文2年(1662年) - 元禄15年9月18日(1702年11月7日))は、江戸時代前中期に活動した狩野派の絵師。
京狩野家3代目狩野永納の長子で、永敬は4代目。
息子は5代目となる狩野永伯、弟に狩野永梢。
本姓は藤原、通称は縫殿助、求馬。
号に仲簡子・幽賞軒、松陰子。
略伝=
狩野永納の子として京都に生まれる。
貞享元年(1684年)6月末頃家督を譲られ、当主が名乗る縫殿助を称す。
父祖と同様に九条家と深く繋がり、九条家から養子に入った二条綱平に伺候、綱平を介し尾形乾山とも交流した。
更に、『桂宮日記』(宮内庁書陵部蔵)で頻繁に登場し、ときの当主京極宮文仁親王に気に入られていたとわかる。
下記のような本格的な作品を描く他に、『本朝孝子伝』の挿絵も手掛けている。
しかし、元禄15年に41歳で急逝。
墓所は泉涌寺。
弟子に高田敬輔など。
温雅な大和絵風の作品もあるが、代表作の実相院の障壁画では狩野永徳・山楽・山雪ら先祖への回帰し、よりマニエリスティックな画風を展開してる。
その肥痩を強調したうねるような墨線の使用は、弟子の敬輔、その弟子の曾我蕭白へと受け継がれた。
作品=
作品名
技法
形状・員数
寸法(縦x横cm)
所有者
年代
落款・印章
備考
朝鮮人行列図巻
ニューヨーク公共図書館
1682年(天和2年)頃
鮮通信使屏風
ハーバード大学サックラー美術館
1682年(天和2年)頃
右隻:款記「 ……
狩野永敬が亡くなってから、322年と12日が経過しました。(117623日)