尾形乾山(おがたけんざん)
陶工、絵師[日本]
(尾形光琳の弟、寛保3年6月2日没)
1743年 7月22日 死去享年81歳
尾形 乾山(おがた けんざん、 寛文3年(1663年) - 寛保3年6月2日(1743年7月22日)は、江戸時代の陶工、絵師。
諱は惟充。
通称は権平、新三郎。
号は深省、乾山、霊海、扶陸・逃禅、紫翠、尚古斎、陶隠、京兆逸民、華洛散人、習静堂など。
一般には窯名として用いた「乾山」の名で知られる。
生涯=
乾山記念碑、京都市東山区清水寺内、1920年建立
京都の呉服商、雁金屋の三男として生まれ、権平と名付けられる。
6歳上の兄は尾形光琳である。
貞享4年(1687年)、父の遺言により、室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰3つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を、光琳と折半で譲り受けた。
遊び人で派手好きで遺産を放蕩に費やした兄・光琳と対照的に、乾山は莫大な遺産が手に入っても、内省的で書物を愛し隠遁を好み、霊海・逃禅などと号して地味な生活を送った。
元禄2年(1689年)、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励んだ。
この仁和寺門前には野々村仁清が住んでおり、乾山は早くから光悦の孫の光甫や楽一入から手ほどきを受けていたこともあり、仁清から本格的に陶芸を学んだようだ。
37歳の時、かねてより尾形兄弟に目をかけていた二条綱平が京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えたため、ここに窯を開く。
その場所が都の北西(乾)の方角あたることから「乾山」と号し、出来上がった作品に記した。
正徳2年(1712年)、50歳のとき、京都市内の二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入 ……
尾形乾山が亡くなってから、281年と121日が経過しました。(102756日)