岩佐又兵衛(いわさまたべえ)
絵師[日本]
(慶安3年6月22日没)
1650年 7月20日 死去享年73歳
岩佐 又兵衛(いわさ またべえ、天正6年(1578年) - 慶安3年6月22日(1650年7月20日))は、江戸時代初期の絵師。
又兵衛は通称で、諱は勝以(かつもち)。
武家出身ながら画家になり、京都・福井・江戸を巡り屏風・絵巻に傑作を残した。
異名に「浮世又兵衛」「吃の又平(どもりのまたへい)」がある。
略歴=
幼少期=
摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主、荒木村重の子として生まれる[* 1]。
誕生の翌年の天正7年(1579年)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。
落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される。
『岩佐家譜』では「西本願寺」と記されているが、当時はまだ西本願寺はなく、石山本願寺か京都の本願寺関連寺院だと推測される。
天正15年(1587年)に豊臣秀吉主催の北野大茶湯には誰かの供をして参加したらしく、その時の秀吉の思い出を後に又兵衛は自筆の紀行文『廻国道之記』に記している。
成人した又兵衛は母方の姓とされる岩佐姓を名乗り[* 2]、信長の息子・織田信雄に仕えたという。
文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。
秀吉を慕っていた又兵衛が信雄に長く仕えたとも思われず、他にパトロンもさまざまに替えたと思われる。
関白二条昭実の屋敷にも出入りしてい ……
岩佐又兵衛が亡くなってから、374年と121日が経過しました。(136725日)