狩野尚信(かのうなおのぶ)
絵師[日本]
(慶安3年4月7日没)
1650年 5月7日 死去享年44歳
狩野 尚信(かのう なおのぶ、慶長12年10月6日(1607年11月25日) - 慶安3年4月7日(1650年5月7日))は江戸時代初期の狩野派(江戸狩野)の絵師。
竹川町狩野家(木挽町狩野家)の祖。
狩野孝信の次男で探幽の弟、安信の兄。
妻は狩野甚之丞の娘、子に常信。
通称は主馬、自適斎、卜隠と号した。
略歴=
慶長12年(1607年)、京都に生まれる。
父は狩野孝信、母は佐々成政の娘。
探幽は兄、安信は弟で、姉妹は狩野信政、神足高雲(常庵)に嫁いだ。
また狩野寿石は甥(大甥とも)、久隅守景の妻国は姪、江戸幕府3代将軍徳川家光の正室(御台所)鷹司孝子は母方の従姉に当たる。
幼少期は父に頼まれた狩野興以に兄や弟と共に絵の教育を受けたという。
元和4年(1618年)に父が亡くなると、5歳年長の兄探幽は既に別家したため、尚信が父の跡を継ぐことになる。
元和9年(1623年)の家光上洛の際に17歳でお目見えし、家光から絵事を申しつけられ幕府の御用絵師になった。
同年に従兄の宗家当主狩野貞信が死亡、子が無かったため弟の安信が宗家を継いだ際、安信を盛り立てることを誓った誓約書では4番目に署名した(前の3人は狩野長信・探幽・狩野甚之丞、後の3人は狩野新右衛門・狩野元俊・興以)。
大坂城本丸御殿の大広間・対面所・白書院といった主要な部屋の障壁画を描き(慶応4年(1868年)の火災で現存せず)、寛永3年(1626年)に二条城行幸御殿と二の丸御殿黒書院の障壁画を制作し ……
狩野尚信が亡くなってから、374年と195日が経過しました。(136799日)