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杉浦重剛

思想家[日本]

1924年 2月13日 死去享年70歳

杉浦重剛 - ウィキペディアより引用

杉浦 重剛(すぎうら じゅうごう、1855年4月19日(安政2年3月3日)- 1924年(大正13年)2月13日)は、明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家・政治家。
幼名は謙次郎。
父は膳所藩の儒者杉浦重文。
近江国膳所藩(現・滋賀県大津市)出身。
若き日の昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の3兄弟に帝王学の一環として倫理を進講する。
号は梅窓または天台道士。
学生時の渾名は紙魚(しみ)。
後に『人格高邁の国士』と評される。
理学宗の世界観を確立。
経歴[編集] 近江国膳所藩の儒者・杉浦重文(蕉亭)と妻・八重の間に次男として生まれる。
3歳のとき、護送される頼三樹三郎を目撃する。
数え年6歳で藩校・遵義堂に入学を許され、高橋正功(坦堂、作也)、黒田麹廬、岩垣月洲に漢学・洋学を学ぶ。
「予の精神は之を坦堂先生に受け、学問は之を麹盧先生に受け、識見は之を月洲先生に受けた」と後に懐述するように、この三人より受けた教育的感化は彼の一生を支える程強かった。
15歳で句読方に任ぜられる。
15歳のおり藩より貢進生に選ばれ東京に下り、大学南校に学ぶ。
在学中は猛勉強の結果、明治6年(1873年)10月、明治天皇への御前講演に選ばれ理化学の実験を行う。
首席の鳩山和夫、小村寿太郎、高平小五郎らが同期生だった。
のちに小村の外務省入りのきっかけとして、小村を外務卿・井上馨に紹介したのは杉浦であった。
明治9年(1876年)、第2回文 ……

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