穂積陳重(ほづみのぶしげ)
法学者[日本]
1926年 4月7日 死去享年72歳
穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1855年8月23日(安政2年7月11日) - 1926年(大正15年)4月7日)は、明治から大正期の日本の法学者。
日本初の法学博士の一人。
東京帝国大学法学部学部長。
英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。
貴族院議員(勅選)。
男爵。
枢密院議長。
勲一等旭日桐花大綬章。
現在の愛媛県宇和島市出身。
獨逸学協会会員。
弟子に牧野英一など。
人物=
1855年8月23日、伊予国宇和島藩領で国学者の鈴木(穗積)重樹の次男・邑次郎として生まれた。
明治に入り鈴木家は穂積に改姓している。
13歳で婿養子として入江家と養子縁組(婚約)をし、宇和島藩の貢進生として大学南校入学時は入江邑次郎、開成学校では入江陳重と名乗っている。
入江家の援助により1876年から英独に留学。
1881年(明治14年)、英独留学から帰国し東大法学部講師就任。
この時点ではボアソナードや仏法学にも好意的だったが、翌年から仏文の財産法草案(プロジェ)を検討するにつれ批判的になる。
この時の学生だった江木衷や奥田義人らが穏健派の陳重を差し置き、明治22年からの民法典論争で延期派の中核を担う。
なお陳重自身は英仏両派の派閥的感情的争いからは距離を置き、もっぱら学者的見地からの公平な法典批判に徹している(後述)。
1882年(明治15年)、穂積姓に復帰して渋沢栄一の長女歌子と結婚した。
1885年(明治18年)、 ……
穂積陳重が亡くなってから、98年と209日が経過しました。(36004日)