芳賀矢一(はがやいち)
国文学者[日本]
1927年 2月6日 死去心臓麻痺享年61歳
芳賀 矢一(はが やいち、慶応3年5月14日(1867年6月16日) - 昭和2年(1927年)2月6日)は、日本の国文学者。
東京帝国大学名誉教授、國學院大學学長、帝国学士院会員。
経歴=
國學院大學渋谷キャンパスにある芳賀矢一胸像。
芳賀は國學院「中興の祖」とされ、校歌の作詞者でもある。
この胸像は、芳賀の没後、1937年(昭和12年)2月6日に國學院大學で十年祭を執り行った際、遺徳を顕彰するために建立された。
製作は本山白雲による。
1867年、越前国福井生まれ。
父は国学者の芳賀真咲。
第一高等中学校を経て、帝国大学文科大学(のちの東京帝国大学文学部)卒業。
小中村清矩に学ぶ。
1898年に東京帝国大学助教授、翌年(1899年)よりドイツに留学し、文献学を学ぶ。
1901年に帰国し、東京帝国大学教授となる。
1903年、文学博士を取得。
大正4年(1915年)帝国学士院会員。
また1918年から逝去まで國學院大學学長を務め、同大学の大学令による大学昇格や渋谷移転にも尽力した。
また、東宮職御用掛を拝命。
大正天皇崩御の際には、奉悼歌の歌詞を命じられた。
昭和2年(1927年)、心臓麻痺のため死去。
墓所は文京区護国寺。
業績=
上田萬年に続く東京帝国大学国語国文学教授で、国学とドイツ文献学をあわせた日本国文学の基礎を作り、近代国文学の父と称された。
また国語教育に携わり国定教科書を編纂した。
「尋常小学読本」編集・校閲との関連で、文部省著作の「 ……
芳賀矢一が亡くなってから、97年と247日が経過しました。(35676日)