アーネスト・サトウErnest Mason Satow
外交官、駐日公使[イギリス]
1929年 8月26日 死去享年87歳
サー・アーネスト・メイソン・サトウ(英語: Sir Ernest Mason Satow、枢密顧問官、GCMG、1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。
イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。
日本名は佐藤 愛之助(さとう あいのすけ)または 薩道 愛之助(読み同じ)。
雅号に薩道静山。
日本滞在は1862年から1883年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。
植物学者の武田久吉は次男。
生涯=
日本着任まで=
1843年、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つソルブ系ドイツ人(当時はスウェーデン領だったため出生時の国籍はスウェーデン)の父デーヴィッド、イギリス人の母マーガレット(旧姓、メイソン)の三男としてロンドン北部クラプトン(en, 旧ミドルセックス州 現在のハックニー区)で生まれた。
サトウ家は非国教徒でルーテル派の宗教心篤い家柄であった。
父親は兄弟で一番優秀だったアーネストをケンブリッジ大学に進学させたかったが、階級差別の激しい当時、中産階級出身の非国教徒が学位を取れる保証がなかったため、プロテスタント系のミル・ヒル・スクールに入学、1859年首席で卒業、宗教を問わないユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに進学、ローレンス・オリファント卿著・『エルギン卿遣日使節録』 を読んで日本に憧れ、1861年にイギリス外務省(領事部門)へ通訳生(首席 ……
アーネスト・サトウが亡くなってから、95年と44日が経過しました。(34743日)