伊達宗城(だてむねなり)
伊予宇和島藩主[日本]
1892年 12月20日 死去享年75歳
伊達 宗城(だて むねなり)は、江戸時代後期の大名、明治初期の政治家、華族。
位階は従一位、勲等は勲一等。
江戸期には伊予国宇和島藩8代藩主だったが、維新後に議定、外国事務総督などを務めて外交担当者となった。
また民部卿・大蔵卿、清国への欽差全権大臣などを歴任した。
生涯=
文政元年(1818年)、大身旗本・山口直勝の次男(祖父・山口直清は宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった)として江戸にて誕生した。
母は蒔田広朝の娘。
幼名を亀三郎と称した。
文政10年(1827年)4月、参勤交代による在国に際し、宇和島藩主・伊達宗紀の仮養子となる。
文政11年(1828年)10月、宇和島藩家臣・伊達寿光(伊達村候の孫)の養子となったが、翌文政12年(1829年)4月11日、嗣子となり得る男子に恵まれない藩主・宗紀の養子となる。
宗紀の五女・貞と婚約して婿養子の形をとったが、貞は早世してしまい、婚姻はしなかった。
藩政時代=
天保15年(1844年)、養父の隠居に伴い藩主に就任する。
宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。
幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手した。
福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と謳われた。
彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中首座・阿部 ……
伊達宗城が亡くなってから、131年と298日が経過しました。(48146日)